宗 派 |
曹洞宗(そうとうしゅう) |
名 称 |
八屋山 普門寺(はちやさん ふもんじ) |
建立年月日 |
天平12年(西暦740年) |
本 尊 |
聖観世音菩薩 |
沿 革 |
天平12(740)年、行基(668 〜 749)が、行脚中に 藝州吉田に滞在した折、「時おり河底から一筋の神光が発 し、山頂の樹上に掛かる」という村人の話を聞き、吉田山 山頂の石上で七昼夜修禅念誦した。すると、紫雲とともに 釣竿を持った長眉・白髪の老人が現れたので、神光の出所 について尋ねると、釣竿を挙げて場所を指した。そこで、 漁師に河底へ網を下ろさせると、観音様の像が上がった。 行基は、その端厳な妙相に喜び、山頂に大士堂(菩薩堂) を建てさせて尊像を安置した。また、観音経2090文字の 書かれた小石を函の中におさめ、蓋に「普門品題號十七字」 と記して宝帳(※)の中に納めた。 ※「宝帳」垂れ幕をして美しく飾りつけた厨子 のような調度、あるいは小部屋の類 天台僧・頼圓は、この話を聞いて、大雪の中この堂で法 華経千部を読誦し、血で大悲咒を書き、勧行を行った。百 有余日が経ち、従者含め三人の皆が飢餓状態に陥っている と、錫杖を持ち、珠数をかけた老翁が美濃八屋柿(蜂屋柿 / 蜂谷柿か?)を手に現れ、朝夕にこれを舐め、お湯で 腹を温めれば飢えを忘れると語った。これにより、頼圓ら の命は救われた。ちなみに、頼圓は濃州(美濃)の生まれ である。 飢えと寒さで冬の間に必ず死んでいると語っていた村人 達は、春に何も変わらない無事な姿を見せた頼圓らを見て 驚き、その因縁を聞いて喜んだ。それからしばらく、頼圓 は、雪に阻まれて尊像を礼することができていなかったの で、里人とともに大士堂を訪ねると、観音像の手に合った 錫杖は折れて堂外に散在し、蓮台の蓮弁が三片、台座の下 に欠け落ちていた。 頼圓はこの蓮弁が八屋柿であったとさとり、観音像が老 翁の姿で示現して自分を救って下さったことに涙が止まら なかった。そこで、何日もかけて二頭の獅子を自ら彫って 宝帳の裏に奉納し、また三片の蓮弁のうち二片は蓮台で補 い、一片は吉田山に留めた。 この不思議な出来事から、経石に因み寺号を「普門寺」、 賜った柿から山号を「八屋山」と称した。 毛利元就(1497 〜 1571)が吉田に城を構えていた頃、 所願することがあって大悲堂に夜通し詣でると、暁夢に大 士の妙相が現れ、軍配団扇を授けられた。面には、金字で 詔が書かれ、汝宜しくこの字義を憶念すべしとあった。そ の後、所願が通じたことで、堂宇の造立、吉田上村の中の 二十貫もの水田が寄付され、親しく制作された軍配団扇が 奉納された。 その孫、毛利輝元(1553 〜 1625)は、久しく子ども に恵まれず、お堂に通って所願すると、嫡男となる秀就 (1595 〜 1651 / 長州藩初代藩主・松平長門守)を授 かった。それに伴い、輝元は自らの手で赤栴檀の木馬を彫 り、奉納している。 <「寶永七年(1710)祕記」より要約> 『廣島市史・社寺誌』(大正13年刊)所収 『知新集』によると、当寺は元々「観音坊」と呼ばれてお り、天平12(740)年に藝州吉田村に開基し、毛利時代に は 可部荘 ⇒ 打越村 ⇒ 広瀬村 と転々としたとある。 福島正則(在任 1600 〜 1619) の時代に至って現在地 に移転され、「八屋山普門寺」 と称された。 ご開山は、 國泰寺三世十岫宋智( ? 〜 1660 / じっちゅうそうち)。 |
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